2010年9月9日木曜日

写真に映らないレンズの向こう

イギリス旅行から帰った翌日から、祖母のお通夜と葬式が続くことになる。

家に着くと、夏休みをさらに延ばす旨を職場に連絡したり、たまった仕事のメールに目を通したり、旅の後片付けをしたり、洗濯をしたり…。

そうこうしている内にウトウトしてくる。

無理もない。帰りの飛行機の中では、できるだけ時差を解消しようと、我慢して映画も観ずに体を休めるよう努力したけど 12 時間のフライト中はほとんど眠れなかったのだ。一番心地よく眠れたのは、成田からの京成線の中かもしれない。

慌ただしく迎えたお通夜の当日、おばが今までに撮影した祖母の写真をいろいろと持ってきてくれた。家族は棺に入れるため、私がいない間にお正月の家族の集合写真を焼き増ししていた。

そんな思い出の写真を観るうちに、私も明日の出棺までに棺に入れられるよう、今まで撮った写真を探して来よう、と思い立った。

ここ 8 年は、祖母は老人ホームに入っていた。
正直、あまりよく出来た孫でない私が会うのは多くて年に 3、4 回程。そのうちカメラを持参していったのはお正月の時ぐらい。

デジタルカメラを使うようになってから、データは皆ハードディスクに保存したので、まずはそれを探し出すところから。きちんと全てを整理していない私は、探し出すだけで一苦労。

留学時代にロンドンで撮影した膨大な写真を漁っていると、時に思い出に浸りそうになりながら、その山の中から、祖母の映った写真を探し当てた。

留学の合間に帰国した際に撮った写真、留学を終えた後に撮った写真、完全に帰国した後に撮った写真…と出てきたが、どうしても見当たらない年もある。睡魔と疲労が襲って来るけれど、どうしても明日の告別式までにやらなければいけない!

結局、2007 年と 2008 年の正月の写真はお手上げで、どうしても出て来なかったが、棺に入れたり、おばにあげるために、発掘した写真を一覧やスナップショットとして印刷した。

自分が撮影した写真も、おばが撮影した写真も、まだ元気な頃の写真だとにっこり微笑んでいる。もうここ数年は孫の私の名前も思い出せなかったけれども、どの写真も撮影する側への視線が感じられた。

たとえまっすぐ前を向いていなくても、カメラを向けている側への愛着や親近感が写真を通して感じられるのだ。そして逆にカメラを持つ側も、被写体に向けた愛情をもって撮影していることが写真か感じられる。

私の写真の腕前なんてたかが知れているけれども、この両方の親密な空気が、写真の上に溢れていた。

カメラのレンズを挟んで対峙する被写体と撮影者
それはカメラのレンズを間にした愛情のやりとりかもしれない。

写真を作品として観ていると、ついそこに映った像の形や色ばかりに気をとらわれてしまうけど、本当は写真と言う一枚の薄っぺらい紙面には、映っているものの他に、撮影者というもう 1 人別の人の存在がある。この 2 つがあって初めて写真は成り立つのだ。

家族の写真を見ながら、そんなことを改めて思い知らされた。                                                                              

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